川口市西部の芝地区は、江戸時代より前には、蕨市やさいたま市の一部を含む地域とともに、 芝郷と称されたと考えられています。

芝5379-1に鎮座する羽盡(はぞろ)神社が伝える建武 2年(1335)の銅鏡に「芝阜社(しばおかしゃ)」、文明9年(1477)に栃木県足利市の鑁阿寺に納められた巡礼納札に「足立郡芝丘郷蕨村」とあります。 芝郷は、 芝丘(阜)郷とも呼ばれていたようです。

江戸時代の芝地区は芝、小谷場、伊刈、八木崎、柳崎といった村に分かれていました。芝村内の地名には、樋ノ詰(爪)、神戸、下、高木、塚原、塚越、田中、辻、東木戸、宮根などがありました。

明治初めの記録では芝村内の地名として、中田、網の輪、壱町目、杉橋、勝堀合、内谷、右近堤、下、高木、宮根、梅ヶ坪、荒金、鶴ヶ丸、峯町、辻、神戸、堀代、亀田、臑田、丸池、樋の爪、五町目、南町、三斗蒔、五斗蒔、北町、広面、塚越、塚原、後谷、上谷がありました。

明治22年(1889)に芝、小谷場、伊刈と、既に八木崎と合併していた柳崎の四村が合併して、芝村となりました。

当時は田んぼが広がるのどかな土地でした。(江戸に献上する米も作っていたようです)

水田を潤すために藤右衛門川、見沼用水、戸田用水、八幡用水という4つの水路が走り、そこから分岐した豊かな水が美味しいお米を作っていました。

今でも住宅と住宅の間に、その名残りとしていくつもの細い暗渠(あんきょ)を見ることができます。

芝村は昭和15年(1940) に、鳩ヶ谷町、新郷村、神根村とともに川口市に編入されました。これにより、川口市大字芝となりました。

日本初の私鉄である日本鉄道は東京と青森、あるいは越後新潟を結ぶことを目指して、 明治15年(1882)、 川口~熊谷間から建設を開始しました。 翌年の開業時に設置された駅は、上野、王子、浦和、上尾、鴻巣、熊谷の六駅でした。蕨駅が設置されるのは明治26年、川口町駅(現・川口駅)の設置は、国有化後の明治43年でした。

陸橋が出来るまで、西口と東口を結んだ踏切

陸橋が出来るまで、西口と東口を結んだ踏切

当初の蕨駅には中山道と旧宿場町を有した側、現在の西口にしか改札がありませんでした。東口に改札ができたのは昭和24年で、それまでは現在の川口蕨陸橋の場所にあった開かずの踏切を渡り、蕨駅に向かいました。東口ができた後も、買い物等で蕨に行くために、踏切を渡っていました。昭和42年、踏切が陸橋となり、蕨駅は現在の形に変わり、東西の自由通路ができました。

昭和30年代の蕨駅西口(写真提供/ 共に蕨歴史民俗資料館)

芝新町が成立たのは昭和33年です。 蕨駅東口付近は蕨市内ですが、芝新町も駅前として発展したことにより、成立したのでしょう。

この後、団地の造成による芝園町などの新しい町名や、旧地名に芝を付した町名などが成立しています。

また昭和の始めには芝村の人口は約4000人でしたが、昭和30年には1万人を越え、田んぼから住宅地へと変貌を遂げていきました。

そんな環境から、昭和30年頃より1軒、2軒と日用品を販売する店が並びはじめ、昭和35年、40数軒が集まり「芝銀座通り商店会」が誕生しました。

当初の業種は八百屋、肉屋、豆腐屋、銭湯など生活に密着したものが多く、徐々にカメラ屋、レコード屋、洋服屋、宝石店などができ、買い物を楽しむ場としての商店会が発達していきました。

現在では加盟店57店舗となり、三代目の老舗からカフェまで、地元の皆様に親しまれ、愛される商店会でありつづけています。